5月9日、オーロラの国

ウイルスの蔓延で家に閉じこもることが多くなってから
朝ちょうど日の昇る4:30くらいに起きている。
朝食を買いにコンビニに向かうとき、
背に受ける朝焼けは赤かったり黄色かったり
空気が澄んでいて風は涼しくてとても気持ちがよいので
ついつい素敵な1日がくることを予感してしまう。
世界中の命が危険に晒されていることをその時だけは忘れて
空気を目一杯吸う。死の予感なんてしない清潔な朝。

それでも今この世界は地獄なのだろう。
人間の手に負えないことはいくらで起こる。
地震、台風、津波、火災、そして渦中にあるウイルス
世界中でどれだけの人が亡くなったのか大体の把握しかしていないけれど
たとえば、祖父母はその見えない恐怖に怯えている。
年齢のせいもあるだろう。
これにやられたら死んでしまう、と何度も口にする。
会うとすれば祖父母の家の庭。きちんとマスクをして。
都市部に行っていないかや、人に会ってないか、家にいるのかなどの話をされる。
ああ、本当にこわいのだろうな、と想像する。

わたしは情報をなるべく避けて過ごしている。
今日の感染者数、亡くなった方の数などが垂れ流しになるテレビは家にそもそも置いていないし
twitterもさらさらと読み流して、自分に必要な情報しか目に留めないようにしている。
気にしていないわけではない。
自分も含め誰かの命が死に晒されている状況は怖い。
あした会いたい人を亡くすかもしれない、いつまで続くかわからないこの怖さはみんな一緒だと思う。

3.11の震災のとき、流れてくるニュース、twitter、いろいろな情報を受け取りすぎて心を壊した。
誰かの生活が脅かされてその人の余裕がなくなったとき、強い言葉やイメージが溢れ出す。
誰かが何かに対して強い言葉を使っていたり、社会全体の不安はわたしの心をズタズタした。
あのとき、揺れて痛んだ心に気付いていながらも受け取ることをやめられなかったのは、
無力さを知りながらも今起きているひどい出来事に対して何かしないといけないという焦りがあったから。
アンテナをピンと張りっぱなしだった。疲れてボロボロになってしまった。
でも、ゆっくりと、あるいはハッと気付いたことがある。

「今日海に行こうと思い立ったこと。
 走ってる人はただ、走っていたし
 本を読んでる人はずっと本を読んでいた。
 しあわせそうな人はしあわせそうだったし
 そうじゃなさそうな人は、そうじゃなさそうだった。
  
 それでも
 今日はあったかいなあ
 癒えないこともあるけれど
 拭えない不安もあるけれど
 風が気持ちいいなあ、春だなあ
 あの日は大変だったよね
 まだまだこれからだね。
 そうやって
 いつまでも、どこまでも、誰もが誰かの、いのちを祈りながら。
 きっと、ずっと、誰もが誰よりも、日々の暮らしを続けていく。
  
 わたしは懲りもせずに、自分のことだらけの日々を送っている。
 手の届く範囲にいる誰かを巻き込みながら、やさしくなりたいと願っている。
 いつもとなりで笑ってくれる人がいて、わたしも底抜けに明るくなるんだって知ってい る。
 凛とすることに憧れっぱなしで、散歩するみたいに生きてる今日がすべてだと信じている。」
(2013.03 webマガジンアパートメントに寄稿した文章)

 だからこそ、思う。
わたしはあの海に行った日に気付いたことが大切なのだと今も信じている。
それがセカイイチ間違った音楽だとしても、信じるのはわたし次第。
どうしようもないことを考え続けて心を痛めつけるよりも、落ち着いて今の自分にできることを、生活を続けてゆくこと。
これがわたしのライフハック。
わたしたちは世界のどこにいても、この世界で起きている恐怖や地獄の存在を想像して、
受け入れて、折り合いをつけて生きていくしかないのだろう。

「これからどんな時代になるのだろうと不安になるよりも
 これからはこんな時代になって欲しいと願う方がきっといい」

今朝の朝焼けの眩しさ、うそひとつない空に泣きそうになった。
人が生きていることはその空の移りゆく様のようにただそれだけで不思議で美しいことなのだ。

暑い日も増えてきたけれど、
細やかで香しくて乱暴で伸びやかで勝手で
なんだかぬっとりとした生命力みたいなものに
打ちのめされて置いてけぼりにされるような
そんな季節の真ん中にわたしはすとんと座り込んでいる








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