6月20日、sun
教会に行った。
キリスト教の、教会。
最初に誘ってくれたのは恋人だ。
2回目は、わたしが行こうと言ったけれど
恋人もそう思っていたと言っていた。
聖書はおもしろいけれど、わからない。
父も、主もわからない。
祈りも(自分のやり方しか)わからない。
でも、経験することは大切だと思う。
聖書は、おもしろい。
牧師の説教を聞くと、足りないわたしでも少し近寄ることができる。
それに、教会は静かで厚くて厳かで優しくて居心地がいい。
「敵を愛せ」
これが今日の説教のテーマだった。
聖書の言葉は大学の授業で扱ったことがあった。
だからそれよりも、牧師の話に耳を傾けた。自分の心と語り合った。
「赦すことのできない人がいる」
そう声を詰まらせながら言った昔の牧師。
「最低限、自分が許せなかったのだ、という悲しさと醜さを自覚し続けるべきだ・・・心では許していなくとも、できるだけ、許しているのと同じ行為をすべきである」
暴力を振るった父を看取る時になってゆるそうとした小説家。
死んだ恋人を想った。ゆるせない人。
だって、わたしはこの世に置き去りにされたのだし。
ずっとゆるせないと思っていた。強く、強く。
ゆるしてなんかやらないと思ったこともあった。
悲しみ、ひとりぽっち、淋しさ、憎しみ、「それでも-だから-、いつかはゆるしたい」と
10年の間、考えてきた。
関わるためには考えることだと言い聞かせてきた。
腕に言葉を彫った。死んだ人にもこれから死ぬ人にも生きる人にも自分にも声をかけて回りたかった。
「あなたはなにもわるくないよ」
そう言える自分になりたかった。そう在りたいと本当に思ってきた。
また言えなくなる日が来ても、それをしようとしてきた自分を何度でも信じられるようにと祈ってきた。
ゆるせなかった時間は長かったけれど、もうとっくに、ゆるしていたことに今日気が付いた。
ぼろぼろと涙が出たけれど礼拝中だから静かに時々鼻をすすった。体がぶるぶると震えていた。
自分の持つ「悲しさと醜さ」に苦しんで、途方にくれて、絶望の淵に立ったと思う。それでもゆるしたい、そう思い続けていたら、誰のことも憎んでいなかった。いつの間にか。恋人はハンカチを貸してくれた。それで、涙を拭いたら余計に涙がたくさん出た。
(でもね、言えなかったことも、できなかったこともあるし、後悔はしてるんだ。)
恋人に後悔ってなんだろうと訊いた。
後から悔いることは、変わらない。閉ざされている。
「悔い改める」ことは、変えることができる。開かれているから。
前にあるか、後ろにあるかだ、と言っていた。
わたしの後悔は消えないだろう。
それでも時間が過ぎること、時間をかけることを知ってようやく生きることができるようになってきた体だ。
歳を重ねるということを頼もしいと思えるようになった体だ。
これから先も死ぬまで後悔をした自分を生きていくと思う。
だから、これからは先に悔いることもできるようになるだろうと思ったのだ。
ああ、そうだね、だんだんと明るくなってきた。
行こうか。
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