11月28日、幻
思ったことが、感じたことが、すり抜けていってしまわぬように寒くなった朝5時の暗い部屋でキーボードを叩くと、弔いの気持ちになる。まだ、明るくはならない。夜は永遠に続きそうでいつからが朝なのか分からずに大人という年齢になってしまった。
死ぬ時間が短いわたしは、かといって生きているというわけでもない。
生かさず殺さずのそれも人生なのだろうか。
呼吸をして束の間寝て、食べているだけ。それはとても大切だけどつまらないことだなと思う。朝夕めっきりと寒くなったから冬ごもりの支度をしなくてはと思う。
お昼過ぎに、母親が先週から体調を崩したと聞いたから、実家に帰ってごはんでも作ろうと思い立ちバスに乗った。引き返せないところまできて実家の鍵を失くしていたことを思い出す。どうしようかなとぼんやりしていると、祖父母の家にしばらく行っていないことに気付き、お邪魔することにした。
柿を剥くおばあちゃんと隣り合わせに座りながら、先月やっと祖父母に話せたtattooのことを訊かれたのでぽつりぽつりと話した。
わたしがtattooを入れた理由や想い、込めたあれこれ、tattooを入れたことでわたしには推し量れないショックを家族に与えたことについて。
家族を明らかに傷つける選択をわたしは、した。
わたしはなにも考えていないのかもしれなかった。すきなひとたちのことを。すきでいてくれるひとたちのことを。
でも、体に刻んだのはわたしの居場所だった。自分で自分の居場所を作ることは悪いことではないはずだよね、と話すとおばあちゃんはにこにこしながら頷いてくれた。
すきなひとたちではなく、自分を守ったりポジティブにするために選択、行動したことをわたしは後悔していなかったけれど、許してもらえたことは嬉しかった。
これも勇気や決意だったから。思いつきでしたことではなかったから。
散歩がてら、近くの図書館まで歩いた。
さいきんは本屋に行っても目が働かなかったので図書館にも行くつもりはなかったけれど、おばあちゃんが勧めてくれたので行ってみたら、すぐに借りたい本が見つかった。詩集と写真集4冊。自分が写真集を借りたことに少し驚いた。世界がキラキラと見えるような写真集ではないが、それでも驚きだった。
自分の目が嫌いになっていたから。
目を背けているから。
写真を撮ることをやめかけているから。
徐々に生活や生きることから離れていくその行為を眺めていると
さみしいし、「生きることに消極的なわたし」が露わになってくる。
不安でおおめに薬を飲む。
それで、失うことを怖がっている自分に気付く。
気付くだけだ、深入りはしないでいる。ただ、失ったと感じた時のことが怖い。
けれど誰かの世界を覗くその眼差しは、自分がまだ諦めていないことを知らせてくれた。
苛立ちではなく、妬みではなく、自のこれからの可能性を、予感を、それを考えるだけの隙間を知らせてくれた。まだ開かれていない写真集背負った帰り道、夕暮れの広い空の下で、わたしは今日のことを日記に書こうと決めた。うつむきかけのなんでもない日だって、ざらざらの感触だって、遠のいていく。そんなことも書いたり撮ったりしていいんだ、と思えたから。
キッチンで煙草を吸いながら、大きなバスケットにいっぱいとなった金柑を眺めていた。大きさも色も肌触りもまちまちの歪な金柑。けれど美しかった。
「無理をしなくてもいいよ、自分のペースでいいよとみんなに言われ続けた8年。たった8年だけれど、されど8年。その年月がわたしの弱さや甘えを縁取ってがんじがらめにしてきました。何もできないあなたでいいと愛おしい人には言えるのに。言えるのに。自分で自分を許すのはこんなにも難しい。」twitterに吐いた声を反芻しながら、歪な自分のことも少しだけ許せるような気持ちがした。誰かの希望になれなくても、光の真ん中に辿りつけなくても、わたしはわたしに降り注ぐ光を信じることにして、巡礼を続けようと思う。
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