12月7日、地獄でなぜ悪い
わたしが生んだ非現実が誰かにとっての現実となってわたしの元へと帰ってくる。
ただの事実はあらわすことができるけれどやめておこう。
わたしのこころや記憶とはかけ離れたところにあるからだ。
現実と夢の間
生と死の狭間で揺れていた。
草のように。
ここにいる何人もの人がそのように見えた。
だからこそ感じるのであろうそのぬくもりに、孤独に
飲み込まれないように、そっと息をしている。
もっとこころをひらかないと寄り添うこともできないのに
これ以上近付いてはいけないと体が反応して
悲しい。もどかしい。
それ以上わたしに踏み込まないで、と苛立つとその苛立ちに慣れないわたしは消耗する。
揺らぎの中にいる人たちをみては幾たびも泣いた。
苦しそうで、肩を大きく震わせている人たち。
毎日が耐えがたいことの連続だ。
その人たちが大丈夫じゃないことに気付きながら
できるのは笑顔で「大丈夫だよ」と
肩をさすったり背中を撫でたりすることだけだ。
わたしに向かってそうしてくれた人たちの
やさしさやゆるしをようやく知った。
結局のところ
「60点の人生を目指しましょう」
と言われたときの違和感が
わたしをまだ、生かしている。
傷を負うことさえ、できずにいる。
現実と夢の間、久しぶりに外に出て吸った空気を
まんべんなく降り注ぐお天道様の光をわすれないだろう。
だってわたしはたしかに地球に立っていた。この足で。
体を抱きしめて「わたしなら大丈夫」と唱えた。
大切に、適当に、何回も唱えた。
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