1月1日、lazy
大丈夫を辞書で引くと、
危なげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。
そう書いてある。
自分自身が大丈夫になってゆく感覚はちょうど一年前くらいからあって
それがいろいろなことを通して本当になっていく姿を見ていちばん驚いたのは自分だった。
たとえば、週に1回の訪問看護。
「どんな1週間だった?」
「こんなことがあって落ち込んでいました」
「そのときはどうしたの」
「動けなくて1日中泣いていた日もあるけれど、寝て、食べて日常のことをこなしていたらなんとか今は大丈夫になりました」
または、
「一人だと不安なのでお母さんに泊まりにきてもらいました」
または、
「友だちが家に来てくれて話を聞いてもらいながら一緒にごはんを食べました」
そうやって1週間の振り返りを看護師さんとやりながら、客観的な意見をもらい、こういうときはここに頼ればいいとか、今はあまりいい状態ではないからこうしておこうとか。
それを繰り返して、自分のことを俯瞰してみられるように努力をした。
その結果、じゃらじゃらと飲んでいた薬は3錠にまで減って飲みやすくなり、わたしは大丈夫方面に面舵いっぱいな日々を送ってきた。でも、その確信は強さは簡単に崩れてゆくものなのだということを知っているのに忘れてしまいそうで、こわい。
自分を救うために、せめて両手の届く範囲の大切な人やもの、ことを守れるようにと思ってした努力の、わたしは味方だ。けれど、感情移入することをかたくなに拒んだり、良くも悪くも心が大きく揺れてしまうことを避けたりするようになった。
入院をしていた時、わたしが眠っている間に自殺未遂をした同じ部屋の女の人はよく、死にたいと泣いていた。
そのときわたしがしたことといえば、彼女の背中をさすり、本当ならホールで食べないといけないご飯を一緒に部屋で食べたりすることだった。わたしも一緒になって泣きながら、お互いの震える体を抱きしめ合うこともたくさんあった。それだって十分に無力なことを知る時間だった。
しっかりと張った根の強さを信じて、世界に、人に、想像力をはたらかせて向き合うことと、自分が折れてしまわないように、自分を守るためにバリアを張っているのは違うことのように思う。
今のわたしは、もし同じような人がいたときに背中をさすることができるんだろうか。その人を抱きしめることができるだろうか。
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