9月9日、ソラニン
9月になってから夏に忘れ物でもしてきたかのように涼しげなものを作っている。それはたとえば、ひえひえのみたらし団子だったり、宝石みたいなマスカットが水に沈んでいるかのようなタルトだったり、夏野菜を10種類近く使ったおでんだったり。おいしい、とそれらを頬張ってくれる恋人こと、まあちゃんは今、隣で眠っています。キッチンに立って料理をしている時と、こうやって日記を書いている時間だけは、何も余計なことは考えず一人きりの時間を過ごしているような気がするね。
お菓子作りとご飯を作るのは、わたしにとっては勝手が違うのですが、みんなはどうなんだろう。
分量や手順をしっかりと踏まないといけないお菓子作りは性に合わなくて、最後に辻褄が合えば修正がある程度効く料理はしっくりくる。お菓子作りは置いておいても、料理だって理論めいたことは何もわからないけれど、自分の中に蓄えられた経験やら知識やらを総動員して、自分の中の完成形に近付いていくその過程が楽しい。
キーボードを叩く音が相変わらず自分のペースであることに安心する。カタカタだったり、タタンだったり。軽やかにタイピングしているこの音でこころが整っていくような気持ちがするのはなんでだろう。何か書きたいことがあって書き始めるわけではないから、書き終わって書きつけたものがどこに至るのか分からなくて、でもこれもまた、楽しい。
料理をすることも、書くことも、歩くことに似ている。散歩のような、旅のような。
ここでいうところの旅というのは、ジャーニーのことで、それはつまり「一日分の徒歩旅行」のことだ。菅啓次郎さんのストレンジオグラフィーという本の中で、ジャーニーという単語がそのように訳されることを知ったのはいつだったろう。
まあちゃんは昨日、夜食のカップラーメンを食べながら、自分の手の届く範囲の人や物や事を大切にしたいということを言っていた。わたしは2014年の暮れに書いていた「たいせつな人のために何ができるだろうと呟いて、ただ、そこにいる 瞬間を見逃さない。引いてあげることはできなくても抱きしめることのできる手はあけておく。などと書き連ねた紙をクシャクシャに丸めて、やっぱり広げた。何も持ってないことでたいせつな人を、その人のほんの少しだけを守れるのかもしれない。何も持ってなくていいのかもしれない。空っぽで情けないことなんかないのかもしれない」というメモと、高山なおみさんの『帰ってからお腹がすいてもいいようにと思ったのだ』を思い出していた。本当は人間なんて嫌いなんだ、と言いながら夜食のカップラーメンをズルズルと食べている彼は、わたしにはとても人間らしく見えた。
昼間の暑さもやわらいで、夜は冷房を切って眠ることも増えてきた。セミの声が聞こえなくなって、突然終わった夏を知る。それを惜しむかのように、気持ちだけはまだ夏に置いてけぼりのままだから、まあちゃんに海に連れて行ってくれと頼んだり、そのようなものものが出来上がってくるんだろうな。グッバイ、夏。また、来年。きっと、会えたらいいね。
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